4度目の村訪問記パート2 感動と教訓、そして涙・・・

久田智子


*前回に続いて、久田さんの村訪問での感動 と涙の報告をお届けいたします。 

 アルボット村での変化の一つは、診療所が4月から運営し始めたこと。他村出身の看護婦が常駐し、村人のケアにあたっている。
小さな家を改築して始めたものだが、8ケ月間に約700人が利用している。主な症状は下痢や発熱、頭痛や咳などで、乳児から老人まで幅広く利用されている様子がわかった。
決して物資は豊かではないが、何もなかった頃を思えば村人にとっては大切な場所であり続いて欲しい思った。
一方、小学校には大きな変化はなく、生徒約150名が在籍しているが家の手伝いで来られない子も多い。
始業時間になるとムシロとノートを片手に、どこからともなく子ども達が集まってきて各々の教室に入って行く。
あわてて宿題をやる子、悪ふざけをする子、小さな妹や弟のお守りをしながら勉強に来る子など様々である。
机や椅子がない為、持参したムシロに座り地べたでノートを書いている。
それでも彼らの瞳は生き生きとしていて、あどけない表情がとても印象的だ。

◆ 工夫と努力の村人たち
 電気のない村でのランプの生活はとても温かみがある。タ食が終わったら「おやすみ」という生活で静寂の中、木の葉が落ちるカサカサという音に耳を傾けながらいつしか眠りの世界にひきずり込まれていく。
すごく大きな世界の中に、小さな小さな自分が存在しているという不思議な感覚に陥っていく。この生活の中にも一つの開発があった.家畜の糞を溜め、地中に埋めたタンクの中にガスを発生させ、それをパイプで流してランプに利用するのである。
それまでは油を使用していた為、すすで額や鼻の穴が真っ黒になっていたのだが・・・。
それにしても村人の知恵は、果てし無いものだと感心させられた。

◆ 向かいの村、トロパシェルへ
 二日後、対岸のトロパシェル村へ向かう為再びスンコシ川まで下山し、これまた危なっかしい丸木舟に命を預けて川を渡り、ふた山越えてひたすら歩き続ける。しかし今度は真昼間なので怖いものなし。名誉挽回とばかりに、息をあげているP.K.さんを尻目にスタスタと登る現金な私であった。
トロパシェル村では校舎が増え、さらに郵便局と図書館を兼ねた建物を建築中だった。
生徒たちはバレーボールをしており、体力作りの為体育の授業も加わったそうである。
生徒数は約800人で高校まであり、遠くの村からも学べるよう寄宿舎も利用されている。
夜間には、村の女性や就学前の子ども達の為に識字教室として利用され、優秀な生徒に対しては小学校でのとび級により勉学の道を開いている。
家事や育児のため勉学の機会を逸していた女性にとって、意味のある企画であると思う。また就学前の子ども達には、共通のネパール語を教え同じレベルで学校の授業が受けられるようにしている。
というのも、ネパールには部族の言葉がいくつも存在しているため、学校で使われる共通のネパール語が分からないとついていけないのである。村の教育レベルが低いことの一
つの理由に、この部族間の言葉の壁があげられており、多部族の村である程レベルアップが難しいという。
その点この村は、ラマ族とブラ一マン族が中心である為、ここまで発展することができたというのがP.K.さんの見解である。
 しかしそれ以上に私が感じたのは、P.K.さんを含む村の青年たち(20〜40代)20人が集まって作っているグループ(Rural Social Development Association of Nepal)が、村の開発の為に様々な努カをしていることである。
(彼らの多くは村の出身であるが、現在はカトマンズで各自仕事を持っている。)
前回訪問時、この村の発展ぶりを手放しに喜ぶことができなかったのは、「ここだけがこんなに進歩してしまって大丈夫なのか?周囲の村との格差はどうなるのか?」と感じたからであった。
ところが今回P.K.さんにあらゆる疑問をぶつけ、彼らの目指している事、考えている事を実際に見聞きすることで私の誤解はとけ、感動の涙に変わったのである。

◆ 村は着実に前進している
4年前(1994)初めて村を訪れた時、P.K.さんは村の発展の為には教育と医療が必要であると熱く語ってくれた。その翌年(1995)オランダの支援で診療所が建てられたが、常駐して働く医療者がいなかった。看護婦として来てほしいとの誘いに内心やりたい思いはあったが、私が出来なくなった時途絶えてしまうことを考え、やはりネパール人が村の為にやることがベストだとの思いを伝えた。学校には校舎が増え、簡素なトイレが設置されていた。2年前(1996)診療所にはネパール政府の援助でへルスアシスタント(医師と看護婦の間の資格をもつ)が常駐するようになり、村人の利用も増えていった。
 またアイキャンプ(眼科チームが年一回村々を巡回訪問するプロジェクト)も行われ、少しずつ村人の健康面もフォローされるようになってきた。
そして学校には寄宿舎が建てられ、さらにはソーラー発電を利用して電話もひかれ国際電話すら可能になっていたのである.
 これ程の発展の陰に彼らのグループが大きな役割を果たしている事を、今回改めて知ることができたのである。”教育と医療”を中心に、彼らは話し合い、村の問題をひとつずつ解決してきたのだ。
水道を作り学校を建て、診療所を作り電話をひいた。そしてその都度メンバー4〜5人が村を訪れては村人たちに説明し、理解と協力を得ていったのである。
 それと同時に資金を得る為、政府や国際NGOに企画書を提出し働きかけていったのだ。電話については、こんなエピソードも聞かせてくれた。

◆ 文明の利器で広がる世界
これはメンバーがお金を出し合って提供したそうだが、初めてソーラーとアンテナ、電話機を持って村へ行ったら摩訶不思議な機械に村人が群がり、三日間は大騒ぎだったそうである。何度説明しても理解できない様子に、実際にカトマンズにいる息子と話ができるという事実を体験させることでようやく納得したとの事。
この電話の設置により、ニュースが伝わって情報量が増え村人の教育になっていること、もう一つはポーターなどの仕事を探す為にいちいちカトマンズまで行かなくても電話一本で可能になったことが大きなメリットであるといっていた。
また診療所にはヘルスアシスタント(男性)の他に管理補佐する人、家族計画を指導する女性(日本でいう助産婦)が増員されていた。特に家族計画の面では、指導対象が若い女性である為に羞恥心が先立つというデリケートな部分を考慮し、女性を起用したそうだ。
着実に前進している様子が見て取れた。

◆ ほかの村へも波及効果
カトマンズヘの帰路で立ち寄った村で、さらに感銘を受ける出来事に出会った。
「見て欲しいものがある」と言われ、ロッジの裏山へ連れて行かれた。細い道を登っていく途中の足元にそれはあった。
深さ3mはある貯水槽に山からパイプで水をひいて溜めてあるのだが、トタン板がのせてあるだけでその横を大人も子どもも牛も行き来するのである。
危険と隣あわせの状況の中、村人はこの貯水槽から農業用水を運んで畑に使用しているのだ。彼らのグループが今年(1998)の企画について話した際、トロパシェル村にシャワー設備を作ろうという案があったそうだ。
しかし、話し合っていくうち、この村のことが出され「我々の村には水道があるが、あの村にはまだ水道さえもない。この際あの村に水道を作ってあげよう」ということになった。
そして、彼らの支援により村人たちが話し合い水道作りの計画を立て、ネパール政府の援助も得られることになっている。
これは彼らの地道な努力と誠意が着実に実を結び、評価されている証拠であると受け止めた。

◆ 村人の本当に欲しいもの
 その晩P.K.さんから「私達が一番欲しいのは、お金や物ではない。専門的な知識やアイデア、そして国際的な考えだ。視野を広げることは大切だと思う。是非協力してほしい」さらには「こうして遠い日本からネパ一ルの小さな村の為に、一生懸命考えて来てくれること、それがすでに村人にとっては教育になっている。
自分達も村の為にできることをしようという気持ちになり、励みになっている」と。
この言葉で、4年間手探りできたことが、ようやく手応えとして返ってきた気がした。
私なりの村やネパールとの関わり方の糸ロを掴むことができた。
村人が中心になって村の為に努力することこそ、本当の自立への道だと思っていたから。
こうしてトロパシェル村が中心となり、その周囲の村々ヘ波及していくことが望ましい形なのかもしれない。
 サバイバルであった反面、たくさんの感動と教訓を得た涙・涙の旅であった。
しめくくりの乾杯のロキシ(ネパールの地酒)にすっかり酔いしれ、ロッヂの階段を再びP.K.さんに手を引かれながら登るはめになったのはちょっびり情けなかったけど、心の中は温かいもので満たされた思いであった。
(完)

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