◆特集1:遠隔地事情
-コーヒーの活動を通してみたネパール-
村の自立への歩み
土屋 完二
ネパリ・バザーロの歴史を語るとしたら、この話をしなければウソ、というほどに密接な関係をもった活動のひとつにコーヒーがあります。
コーヒーは、紅茶と同様に一国の換金作物としての立場もあり、ネパール政府レベルでの活動の必要性とその限界や、私たち草の根レベルでなければできない活動の必要性をこれだけ鮮明に写し出したものもないのではないかと思うからです。単なるコーヒーだけでは語りきれないほど多くの物語があり、これひとつとっても、フェアトレードが何故必要か、多くのことを教えてくれます。
◆ ネパールでのコーヒー輸出許可第1号
フェアトレードの目的に、小さな生産者への貢献、社会的に不利益を被りやすい立場への貢献があります。その大きなキーワードが女性であることは間違いない事実です。その思いをもってハンディクラフトを中心に企画、開発に取り組む中、コーヒーの販売市場がなく困っている、という出会いがあり、1994年秋にコーヒーの取り引きは始まりました。
当時、政府レベルでは、いろいろな国へ取り引きをして欲しい旨、打診を行い、その中で唯一オランダだけが取り引きをすると意思表示しました。オランダは国レベルとして、私たちは、草の根レベルとして取り引きを開始したのです。そして、正規の輸出許可を政府から受け輸出を始めたのは、ネパリ・バザーロが第1号でした。
◆ コーヒーの取り引き中止の決意
私達有志で調査隊を組織して村へ何度か訪問したこともありました。せっかく村人とも良い関係を築こうと努力していたのですが、しかし、なかなか全体がみえてこない。一体、どのくらい農民に支払われ、運搬にいくらかかるのか。私たちと村を橋渡している人達が教えてくれないのです。村人に直接聞いた話とも違います。村と私たちを仲介している人に情報公開を迫りましたが、すべて情報は隠されたまま。これと平行して、もちろん、他からの情報収集にも努めました。そして、スタッフと何度も相談し、その取り引きは「相互信頼が得られない」ので止めざるを得ないと決断しました。
◆ コーヒーの輸入継続、最後の望み
せっかく始めた村へのコーヒー支援でしたが、農民への情報が不透明であったため、先の活動は断念。その間、輸入を止めるべきか、継続の努力をすべきか、という議論をスタッフ間で話合って来ました。日本でも応援して下さる多くの方がいます。ハンディクラフトの販売が一時できないほど時間を割き、日本各地をキャラバンしてコーヒーの取り扱いをお願いして来ました。その協力を惜しまなかったお店の方やグループの方々の思いも考えて判断したいと思いました。その好意をいかさなくては。せっかく広げた市場をたたむのは、生産者にとっても残念なことですが、消費者の方、お店の方々にとっても残念なことです。なぜなら、一方で、まだまだ市場がみつからず困っている人々がいるのです。 しかし、その生産者とつながるには、だれも仲介はしてくれません。極わずかの情報を頼りに自ら奥地の家々を訪問しなければなりません。時間も労力もなおいっそうかかります。精神的にも、費用的にもギリギリまで追いつめられていましたが、最後の望みをかけて、もう一度、挑戦することにしました。
◆ コーヒー情報集めに奔走
ともかくも、より正確な情報を得ようと、紅茶コーヒー委員会(National Tea & Coffee Development Board)と情報交換したり、ポカラの農業関係のNGO LI-BIRDを訪ねたり、またネパール商工会議所(NCCI)の農産物事業センター(Agro Enterprise Center)を訪ねたり、主だった生産者、協会も訪ね、更に、ネパールにある日本の国際協力事業団(JICA)を訪ねました。新聞に情報を集める記事を載せたりもしました。紅茶でお付き合いのあるディリーさん、ハンディクラフトのサナのチャンドラさん、カーゴのディリーさん、多くの方に支えられ、協力して頂きました。
私たちの存在を知ると、商談を持ちかけてくる人々もいました。いわゆるミドルマンです。換金作物を売りたいという村人と、その中間にたって名をあげ、または儲けようとするミドルマンの動きは、残念ながら将来のことを何も考えてないし、また、村の状況がみえて来ないという意味では、先に取り引きを中止せざるを得なかった事情となんら変わりなく、大変困りました。もちろん、妨害もあります。
今まで築いてきたネットワークをたよりに、現在の状況の情報集めに奔走する中で信頼できたのが、NCF(National Cooperative Federation of Nepal)という組織で、そこを通じての輸入継続を検討しました。問題は、農産物は得意なのですが、コーヒーは扱い実績が少なく、イニシアティブの実行力が当時はなかったのです。それでも、村への連絡ルートを組織的に保有しているので、その力をかりて、調査は始まりました。
◆ イニシアティブ不在、場当たり的政策
コーヒーのように、作物を作ることはできても、それを毎年増産するのか、市場は国内向けか海外か、品質や流通ルートはどうしなければならないか、適正価格はどのくらいかなど、全体をみながら促進するイニシアティブをだれかがとらなければ、生産過剰や市場喪失という問題が必ず発生し、最終的には農家への打撃という結果をもたらします。残念なことに、当時の紅茶コーヒー委員会は、基本的には市場を長期的にみて海外市場も考慮しながら育成しようとする力はまだありませんでした。
委員会を構成する理事は、生産者として各村の代表者とそれを取り扱う販売者(多くの場合、ミドルマンに該当)、そして、その委員会職員で構成され、市場というものを反映していないかったのです。市場なき計画は、絵に画いた餅。そこに、私たちが登場し、現在の状況や今後の動き、市場の動き、品質などを情報交換しました。実際には、ミドルマンと、それに繋がった大地主の生産者の力が大きく、聞く耳もたずの状態で、私たちが市場拡販に努めれば、その分、需要があるのだからと値段を単純に上げる、という図式でした。もちろん、それに加えて、私たちが、市場がない地域の調査へ入ると、それを聞きつけて必ずミドルマンが出現します。一時的に価格をつり上げ、お金儲けをするためです。将来ビジョンのないこのような動きは、明日どうなるかもしれず、不安定で、妨害以外のなにものでもありません。
◆ 村との直接取引きの開始 
このような動きは、私たちが最終的には購入するだろうと見込んでの動きです。長期的に全体がみえていない村人は、この動きには弱いのです。少しでも高く売れた方が、その時点では良いのですから。貧しい地域へ行くほどこの傾向は顕著です。
しかし、このようにして異常に高くなったコーヒーの価格は、世界市場価格からかけ離れて、長期的には競合力がなく、市場を失います。その対策も考えました。例えば、コスタリカ(中米)のフェアトレード組織からもコーヒー豆の取り扱い打診を受けていたので、そこから応援してもらってブレンドで乗りきる案。味も近いインドのコーヒーとブレンドする案。いろいろ考えてみましたが、ネパールにこだわる私たちは、できるかぎりネパールコーヒーでがんばってみようと思いました。その対応として、村との直接取引きを始めることにし、連絡場所としてカトマンズ事務所の設置をしました。
◆ 直接取引きは、グルミの村から
直接取引きを行うことになった最初の村は、グルミという、ネパールで初めてコーヒーを植えたとされる地域の村です。首都カトマンズからは車でも2日かかる山深いところです。ここも、市場がまったくなく困っていたのです。輸入継続か否かの運命をかけて、カトマンズからローカルの夜行バスで1日、そして、そこからジープを借りて1日かけてグルミを訪ね、調査の旅が始まりました。
◆ グルミの状況調査

実際には、この調査の旅を初めとして、以後、再三足を運ぶことになりました。その間、コーヒーに関係している販売者も訪ね、コーヒーの状況、市場価格を調べる旅もして来ました。その結果からも、信頼できるのは、直接取引き以外にはないと判断しました。だれ一人として、ネパールの将来を考えて行動している人に出会うことはなかったからです。
グルミで初めて訪ねたのはバラタクサルという山の上の小さな町です。ここで農家を訪ねながら、コーヒーの様子をみてまわりました。いったん帰国して次に訪問したのは、グルミの麓の村、モジュワという電気も来ていない村で、その地域の実力者というゴータムさんと会見し、お互いの見解を話し合いました。この時は、カトマンズからランドクルーザで2日かけて飛ばして行きました。マオイストという極左グループが出没して危険という地域に大変近く、運転手が恐がって先へ入ろうとしないなど、緊張の続く旅でした。5月ということもあり、大変暑く、途中40度を超す旅のはてに到着。体中蚊に刺された湿気と暑さの旅でもありました。そこから徒歩で半日。彼に会うことができたのは、伝令をそこから走らせて翌日の朝でした。白馬に乗って現れたその姿は星の王子様さながらでした。遠方から馬で2時間、徒歩であれば8時間かかるとのことでした。
◆ 裸足の母子への思い
彼との連絡を取る間、小さなバザール通りでぼんやり外を眺めていると、幼稚園児ぐらいの女の子と小学校低学年ぐらいにみえる女の子とそのお母さんが、皆裸足で近くのお店に立ちよっては水をおねだりしたり、何かをもらったりして家路につく姿が目に入りました。こんな奥深い村の中でもこのような情景を見るなんて。カーストが低いからなのか、ともかくも家計は苦しいのでしょう。いつか、コーヒーを通じてもっとこの村に関われるようになったら、もっと状況もわかるでしょう。そして、そのような人々にまで効果が行きわたるように願わずにはいられませんでした。
◆ 取引協定、有機検査とコーヒー皮むき機設置


翌年、再度、バラタクサルの町を訪ね、協定を結び、その年の秋に、オーストラリアのオーガニック証明機関から試験官を招き、グルミを訪ねて土壌検査を行いました。 現金がより多く村に落ちるには、そしてチェリーのまま運ぶより豆にした方が軽いので運搬も効率が良い、ミドルマンの妨害も受けにくいなどの理由もあり、コーヒー豆の皮むき機の導入をネパール政府に働きかけ、村に皮むきセンターを作りました。
更にカトマンズでも、コーヒーの品質選別を行って、品質の向上に取り組むとともに、女性への仕事の機会も作りました。グルミからカトマンズまで運ぶ流通ルートを構築するのも苦労の一つでした。
◆ 西ネパールの換金作物にコーヒー 
ネパールにおけるコーヒーへの私たちの貢献は大きく、ネパール商工会議所がまとめて発表している輸出実績の数値は、私たちで扱った数値です。つまり、ネパールで輸出されているコーヒーは全て私たちが扱っている数量で、それは、日本の貿易白書に記載されているネパールからの輸入量そのものです。それでも、私たちの存在はネパールの関係者には認識されていませんでした。 昨年、ネパールの大手英字新聞、「The Rising Sun」に私たちの活動が紹介されて以来、私たちへの活動の評価も高まりつつあります。
グルミの地域と直接取り引きの協定を結び、かつ、今日に至る取り引きの実績がネパール政府(実際の窓口は、NCCI(ネパール商工会議所)の農業事業センター)に評価されています。ネパール政府は、東ネパールでは紅茶に力を入れる政策、西ネパールでは、コーヒーをその育成対象として取り組む方針でいます。つまり、充分ではないにしろ、技術指導やそのトレーニング費用を優先して投下してもらえるのです。グルミの村にコーヒー豆の皮むき機が設置できたのもこの方針に従い、ネパール政府(農業省)から資金が提供されました。つまり、私たちの税金、政府間資金援助が有効に使われたことを意味しています。ここに至るには、海外青年協力隊ネパール会にも応援を頂きました。
◆将来の展望
このような苦労を通して、ネパールコーヒーが村から町へ、そして日本の市場へと運ばれるようになりました。
現在は、このグルミとイラムの地域が中心です。年々生産量も上がるので、海外の市場にも通用するようにオーガニック証明を取得することや、一般市場よりも大変高くなった価格を市場に通用する価格まで下げること、市場に通用する品質を確保すること、海外には出せない豆は、国内市場にまわせる工夫をしていくこと、海のないネパールとして輸送コスト削減の方法を考えることなど、まだまだやらなければならないことが沢山あります。
ネパールへ行くたびに、生産量とそれに見合う政策の必要性を訴えていますが、それぞれの思惑がからみうまく機能しないのが実態です。技術的向上の面では、今後、国際協力事業団への協力要請や資金面での協力なども仰がなければとても手が負えないでしょう。でも、まずは、彼ら自身がそのつもりにならなければ意味がありません。今、その戦いは始まっています。
ネパールのコーヒーの歴史
ネパールで初めてコーヒーが栽培されたのは1944年頃のことです。インドから持ち込まれたアラビカ種の種を、ルンビニ地方のグルミ地区のアンプチャル村の2〜3人の農夫が植えたのが始まりです。その後何年もしてコーヒー栽培が、やっとグルミ地区農業開発銀行の融資を受けられるようになって、小さな苗場も作られ広く栽培されるようになりました。最近では、ネパールの各地で栽培がされるようになり、中でもパルパ・バグルン・ゴルカ・チトワン・ジャパ・イラム・ミャグディなど15カ所以上になり、特にパルパはコーヒーの生産が盛んになっています。
注)2000年1月現在ではグルミがもっとも盛んです.
(紅茶コーヒー委員会資料による)
グルミ共同組合長のハリー・ゴータム氏のメッセージ
ネパールのコーヒーの歴史は大変浅く、30年前に東ネパールのグルミで植えられたアラビカ・コーヒーが最初です。当初、農民達は、コーヒーは使用できない余った土地を使用していました。以来、換金作物として広がってきたのです。大変奥地でもあるので、化学肥料は使用していません。殆どの農民は、牛糞を肥料として使用しています。また、政府もコーヒー生産を推奨したので、今では質の高いコーヒーが採れるようになっています。
約3年前に、ネパリ・バザーロの完二さんがグルミを訪れ、3年間の購入協定を結んでくれました。その頃は、市場がなく、農民は木を切らねばなりませんでしたが、いまでは継続的にコーヒーを売り、収入を得ることができ、大変に感謝しています。
そのお陰で、アルグカンチ、バグルンなどでもコーヒーの木を植え始めています。
ネパールのコーヒー生産量
1997/1998のデータでは、パルパが一番の収穫、その次がグルミであるが、2000年発表では、グルミが一番の収穫量になっている。ネパリ・バザーロでの輸入量は、チェリー換算で年間約30トン。
注)チェリー:コーヒーの実。実際に使用されるのは、その中の豆で、グリーン・ビーンズという。質の良い豆は、チェリーの重さの30%相当。
パルパ:15トン
グルミ:13トン
アルガカンチ:12トン
バグルン:5トン
ラリトプル:5トン
その他は、1トン以下が11地域。 (1997/1998年度)
農民は何故苦しい生活なのか。
(基本作物である米の収穫量で計算)
小作人の年間の収穫量
4ラーク(27,456u)の借地料=640,000円/年
利子10%:64,000円
米の収穫量:2,400Kg 地主へ半分の1,200Kg収める。
米を育成した経費支払:48,000円
(精米:1,200Kg--> 600Kg)
米を販売すると、400円/kgなので、
収入=1,200kg*400/kg=480,000円
赤字: 752,000円-480,000円=272,000円
(6-7年前までは、3200kg収穫)
コーヒーは、不毛土地が使えるので、この赤字を補い、生産性の高い農産物として期待されている。
ネパリ・バザーロ取組の歴史
1994年9月 ネパールよりコーヒーを正式に輸入(以後、ボランティアが村訪問数回)
1996年5月 コーヒー調査に各地域を訪問
1997年2月 グルミ地域のバラタクサルを状況調査で訪問
1998年6月 グルミ地域のモジュワを訪問、今後の協力関係を話し合う。合わせてパルパ、モダンポカラ地域も調査訪問
1998年6月 オーストラリア(NASAA)のオーガニック証明機関、グルミ調査
1998年8月 海外青年協力隊ネパール会と事務局へ情報収集の協力依頼する
1999年3月 グルミとの直接取引協定を結ぶ
2000年1月 ビラトナガール、ジャパ、イラム調査、共同組織を作る打合せ
2000年1月 コーヒー皮むき機設置
2000年4月 ジョハン村訪問(コーヒー状況確認)
2000年8月 有機証明、国内市場の創造、国際市場に通用する価格への取組体制討議
コーヒーの生産地(ネパリ・バザーロの関係)
ネパール・ヒマラヤ紅茶生産者協会(HOTPA)
のディリーさんからの一言
ネパールは、その変化に富む気候と地形により、品質の良い紅茶、コーヒー、スパイス、果物などの生産に大変適しています。問題は市場を見つける力がないことです。通常、そのような産物は、遠く離れた小さな農家で自然に従った農法で作られています。
もし、ネパールの産物が適切な市場に提供できるのであれば、貧しさはそれほど問題にはならないでしょう。
フェアトレード組織であるネパリ・バザーロは、何年もの間、生産者グループから直接に、手工芸品、紅茶、コーヒーを購入し続けています。
そのネパリ・バザーロの努力は、農村部の雇用創出というだけでなく、ヒマラヤの環境を守るという意味でも大変に意義あることです。
外国からの援助は、このネパールではあまり効果が得られていません。厳しくいえば、寄付は農村部にまでは及んでいないからです。
農村部の輸出可能な産物を作る小さな生産者の市場を広げることは、経済的にも、社会的、文化的向上にも繋がります。ネパールの基本的な要求は、援助ではなく貿易なのです。
日本の皆さんが、これら小さな生産者の作った新鮮でエキゾチックな嗜好品を飲んで、彼らの生活の維持と美しいヒマラヤの環境を保護していることに深く感謝いたします。
コーヒーの最近の動き
最近のコーヒーを巡る動きは速い。
ネパリ・バザーロが継続して輸入した実績をネパール農業省が注目しているからだ。今年の8月中旬には、ネパールテレビでも、グルミ地域が紹介された。
東の地域は、紅茶により豊かであるが、西は経済的に貧しい。その厳しい生活への不満が蓄積して、反政府的な行動も顕著になっている。その解消に向けて、政府はいろいろと換金作物の促進を図るがうまく行かない。その中で、このコーヒーは成功例に映るようだ。
今後は、ネパリ・バザーロがオーストラリアのオーガニック証明試験官を自力で村に呼ぶ必要もなくなる。
村人自身が、政府機関と交渉したり、オーストラリア大使館の協力を得て証明を自分達で取ろうとする動きがでてきたからだ。技術指導には、ドイツ政府系機関(PSPP)も関心を寄せている。
あとは、ネパール国内市場をどう創造するかである。現在、インスタント・コーヒーに年間500万円以上の外貨を使っている。成功すれば外貨節約。大変国にも貢献する。高級ホテルを中心に美味しいコーヒーのニーズも高まっているので好期だ。ロースト・マシンとオーガニック技術。この成功が真のコーヒー政策の成功如何にかかっている。
官と民(草の根)が協力したからこそ達成できた。もうあと一歩、この努力を怠らないように継続したい。
コーヒーの支援活動の始まり
1998年6月通信17号から
生産者を訪ねて その6
共同組合組織のコーヒー村 グルミ
小規模農家の村人たち 土屋完二 
◆ 新しい出会いを求めて
マーケットが見つけられず困っている農民の方々との出会いから始まったコーヒーの輸入であったが、そのころから数年が経った。まだまだ私達の力も弱く、前途多難である。それでも、そのやる気を支えてくれるものは、農民の方々やそのご家族、そして、それを支えて頑張っている方々との出会いである。今回は、ネパールでは比較的新しい形である組合組織を通じて、小規模な村のコーヒーの状況を知るために、グルミの村を訪ねた。
バラタクサル・バザールにお住まいのビムさんとコーヒーの苗木
共同組織の繋がり
National Cooperative Federation
Center Cooperative Federation
Districts Cooperative Federation
Primary Cooperative Federation
(Gulmi, Pulpa, Japa)
◆ 夜行バスの旅
目的地は、かなり山の奥にある。首都カトマンズからは、西の方向で、距離は観光で有名なポカラよりやや遠いブットワールまでまず行かなければならない。車をチャータするには、私の貧乏な旅では支払いに堪えなく、地元の方々が利用する夜行バスに乗ることにした。バスの切符はネパール語、数字もネパール文字。席は予約制なのだが、自分がどこに坐って良いかさっぱりわからない。窓は閉まらないし、座席の間隔も狭く窮屈で寒い。バスの中は、英語は聞こえない。何をしゃべっているのか、断片的にしか理解できない。途中のバス停から若い男性が乗ってきたかと思ったら、車掌とどなり始めた。後部座席からヤジが飛ぶ。どうもお金がないようで、払わなければ降りろと言っているらしい。そこを何とか乗せて欲しいと交渉しているようだ。
このようにして、夕方、カトマンズのニューロードを出発したバスは、翌朝5時に目的地点に到着。外はまだ真っ暗であった。まずは、知り合いの家で休養をとらせてもらい、地元の案内の青年が来るのを待つことになった。
◆ バスを諦めてランドクルーザーで
朝、日が昇るとすこぶる暑い。そうだ、ここはネパールでも南の端である。人々の顔つきも、ラマ族やチベット系の人々、またはネワールの人々のように、どちらかといえば日本人に近い顔立ちが目立ったカトマンズとは違い、インドを思わすアーリヤ系の顔立ちが多い。服装からもインドの影響を感じる。短期滞在の私にとっては、あまりのんびりしているわけにはいかない。村の案内の青年が来たところで、これからの計画を打ち合わせる。
今回は、極力ローカルの交通機関を使いながら、ともかく歩くのを基本に計画したが、その計画はすぐさま変更を余儀なくされた。主要道路でバスを待つのだが、なかなか止ってくれない。これでは、時間がともかく無駄である。なんとかバスを捕まえて、近くの大きな町、ブットワールまで出て、そこでランドクルーザを探すことにした。道がハードで、普通の車では走れないからだ。時間は、既に昼近くなってしまった。とほほ。夕方出発できればラッキーなほうかもしれないという状況になって来た。実際には、大変幸運にも1時間後に車をチャーターでき、出発することができたのだが。ポカラ方面に2時間ぐらい走り、タンセンの町で山側に入る。ここから数時間、更にガタガタ道を走り続ける。
日も暗くなって来たころグルミの村へ到着。あまりの揺れに、胃の調子が悪い。腹の調子も夜行バスのせいか調子が悪くなってしまった。
◆バザールのホテルで、お互いの夢を語り合う
村では、数人の若者が待っていてくれた。村の共同組織に所属している人達である。日も暮れて真っ暗になった夜道を、彼らの家を訪ね、挨拶を済ました。何故か子どもがまだ5ケ月から8ケ月の新婚の方が多かった。
家に着くと、赤ちゃんをチュウチュウとなめる。可愛くて仕方がないのだ。
食べ物は大変に質素である。それでも、泊まれと誘われたが、トイレに弱い私は遠慮してしまった。明日は朝早く出発しなければならないので、一路、近くのバザールへ行き、ホテルに泊まる。2人が泊まれる部屋があり、二人で食事もして800円。おー安い! 山の高いところなので、2月末にしては、大変寒い。具合が悪くて寝ていると、皆が心配して、食事とアルコール(ロキシ)を持って訪ねて来てくれた。この夜道を車で10分は走った遠いところからも来てくれたのには驚いた。
同じ部屋に泊まった案内の青年は、更に山の中へ行かねばならないところから来ている。彼は、村で暮らしたいという。だから、生活が成り立つのが彼の願いだそうだ。なかなか英語では通じない。村の方は、あまり英語ができない。
そこで、ネパール語をミックスする。いや、ネパール語に英語をミックスするという感じ。昨年の9月からネパリ・バザーロのスタッフから習い始めたネパール語が大変に役立つ。ロキシを飲みながら、お互いの夢を語りあう。
◆ダウラギリとアンナプルナの山脈を背景に
翌朝、村の案内役として農協のサブオフィースからビムさんが来てくれた。彼は、村の高校を卒業。そこで習った英語と、その後に独学で勉強した英語で私に話しかけてくる。読み書きや、長いフレーズで話すことはできないが、簡単な言い回しだと十分にお話ができる。大変な勉強家だ。
お茶を飲んで、車に乗りひとつ先のバザールまで行く。そこは、学校がすぐ前にある小さな街であったが、8,000m級の山々、雪化粧のダウラギリ、アンナプルナが良く見えて壮観である。昨晩、ホテルを訪ねてくれた青年がここに住んでいた。学校の先生をしているという連れ合いと、5ケ月になるあかちゃんとの3人暮し。バザールの角の小さな土間の一部屋に、質素なベッドがあり、簡単な料理をする器具が少し。それでも、私にベッドへ座るように薦めてくれ、村で飲むという自分達で作った村のコーヒーを出してくれた。
ここで休息した後、少し先まで行き、あとは歩いて山を下る。そこが、目的のコーヒープレースである。
◆コーヒーとフェアトレード 
以後、さまざまな出会いや、プランテーションでの新発見などがあった。その中でも、力を入れようとしているものは、換金作物である。コーヒーは、その中でも有力な作物。でも、なかなか安定したマーケットを見つけられない。特に、今年は、お隣りのインドのコーヒー生産量が豊富なので、なおさらである。このような状況下で、一部の大流通会社が市場の大半を握るコーヒー市場において、特に小規模生産者に対する私たちの取り組みは、力関係が対等故に歓迎されている。この持続可能な取引きから、中長期的な村の開発を可能にし、生活向上につながって欲しいと願わずにはいられなかった。そして、ヒマラヤンワールドの香りを通じて、皆様に少しでもこの出会いをお伝えできたらと願いつつ。
ネパリ・バザーロ ネパール事務所スタッフ
ラビン・マハラジャンさんからの一言
政府からの事業促進活動もあり、農民はコーヒーを植え、品質の良いコーヒーを作る努力をして来ました。残念ながら安定した販売市場は得られず、せっかく育てた木も刈らざるを得ない状況になっていました。
その頃、ネパリ・バザーロがコーヒーを買い始め、農民にとって大変な助けになりました。
ネパリ・バザーロが村から直接コーヒーを買い始めたので、農民にとって良い現金収入となり、農民への勇気づけとなっていますし、とても喜んでいます。
ネパールでは、コーヒー作物はかなり奥地で生産されていて、その地域の農民の方々と連絡を取ったり、訪ねたりすることは大変難しい状況です。彼らのコーヒーを集めて、一時保管する村のコレクション・センターまで持ってくるだけでも数日を要します。
私達は、グルミの地域共同組合(DCV)と、コーヒーの提供と集荷についての協定を結んでいます。DCVは、農家からコーヒーの実を集め、皮むきをして、その中にあるコーヒー豆を、良い豆と悪い豆に選別します。そして、良い豆をカトマンズまで運んで来ます。
カトマンズまで運ぶと、私達で、更に良い豆と悪い豆を選別し、その後、日本へ送り出します。
私は、普段、コーヒー栽培の農民、協同組合(DCV)と連絡を取り合い、日本へコーヒーを送ったり、日々発生する新しい情報を日本とメール交換しながら仕事を進めています。
昨今、コーヒーを取り巻く状況はかなり改善されてきましたが、次の課題に向けて、ネパール人のひとりとして、ネパリ・バザーロとともに改善に取り組んでいきたいと思います。
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