クンベシュワール・テクニカルスクール(KTS)
  ー苦難の歴史を乗り越えてー
           土屋 春代

◆ 祭りの夜

 パタンの王宮広場の端にクンベシュワールというヒンズー教の寺がある。
 8月の満月の夜、9つの伝統楽器を演奏しながらシヴァ神を担いで町内を練り歩き、最後にゴサイクンダという聖なる池の水が流れ来ていると伝えられる寺の池に安置するジャナイ・プルニマという祭りがある。
 今年の8月、ネパリ・バザーロのボランティアメンバー5人が生産者訪問と新しく取組むプロジェクトの打合せのためネパールに来ていた。KTSの事務局長キランさん(47才)はとても喜び、クンベシュワール寺院の祭り見物に招待して下さった。夕食をいただいた後、隣の寺院に皆で繰り出した。
 テンポのとてもゆるやかなその祭りがクライマックスを迎えるまで痺れを切らしながらみつめ、やや疲れの見えるメンバー、深夜になり雨も降りそうな気配に、そろそろ帰ろうかと思い始め、隣のキランさんを見ると、毎年見慣れているであろう祭りを、私たちが満足するまでいつまでも付き合いますよ、というように穏やかな表情で微笑を浮かべながら佇んでいた。
 
 KTSのこれまでの厳しい道のりを思うとキランさんの暖かく穏やかな人柄の底に、普段は隠されている芯の強さを感じる。そしていつも家族の結束の強さに感心し、その要であり、尊敬を一身に集めているキランさんの父親シディ・バハドゥールさんの存在の大きさに気付かされる。


◆ シディ・バハドゥールさんの闘い

 シディさん(74才)の社会活動歴は古く、それは権力との壮絶な闘いの歴史だった。
シディさんの祖父は70〜80年前ネパールでも屈指の貿易業を営み裕福であった。しかしカーストは低く、貧しい人びとのことも良く理解でき世話をしたので、人々にとても慕われた。
 お金と信望が集まったため、当時ネパールを支配していたラナ家に疎まれ、シディさんの叔父に当る息子のひとりは、犯してもいない殺人の罪に問われ、50年ほど前、妻と7人の子どもを残して絞首刑になった。
 青年だったシディさんは権力に対して強い怒りを覚え、政治活動に入っていった。
 特に不可触民の人々の地位向上を図り、政権から危険視され、1951年ラナ家が倒れるまでの5年間を牢獄で暮らした。
 1955年、国王により国会議員に選ばれた。
 その後も地域での様々な社会活動を精力的に続け、今もご健在だ。
 
 シディさんは政治、社会活動の傍ら45年前、有機肥料の工場も作った。有機栽培という言葉は今でもネパールでは耳慣れない。当時はまして誰も知らず、使う人も殆どいないという状況だったが、ネパールの農業の将来に有機肥料は必要だとの信念に基づき利益の上がらぬその工場を運営し続けた。鶏肉の需要が増え、その飼料に混ぜると良いということが理解されて養鶏業者に売れるようになり、やっと10年くらい前から採算が取れるようになったという。今でも彼の工場がネパールで唯一の有機肥料製造工場だ。
 いくら国のためとは言え、これほど長い年月採算を度外視し、所有していた土地を次々と売ってまで続け、しかも家族が一団となって支える、その揺るぎ無き信念、強い結束力はどうやって、どこからうまれるのだろうか? KTSの歴史を聞いて、理解できるような気がした。


◆ KTSの歴史と活動

 クンベシュワール・テクニカルスクール(KTS)の歴史は、1983年、シディさんが地域に住むポデという道路清掃夫カーストの子どもたちのためのデイケアセンターを開始したことに遡る。

 ポデというカーストは不可触民と言われ、最下層に位置する。カーストの高い人々の家のある、町の中心部に住む事は許されず、町の外れの斜面に追いやられ、バグマティ川の土手にある火葬場近くに住んでいた。
 彼等の住むところは、死、腐敗、汚物を象徴していた。
 彼等は、葬式、排泄物の処理、屠殺、更に死刑執行など汚れた仕事を引き受けることを命じられ、仕事を変わることは事実上不可能であり、しかも何の生産手段、技術も持たなかった。
当時彼らは殆どの食料をゴミの中から拾ってきては食べていた。においがすごいので、しばらく乾燥させては食べていた。小さなあばら家に住み、寝床の下はゴミが溢れ、ブタやアヒルがいて、臭気がひどく不衛生であった。服も拾ったものを着ていて汚く、30才から35才まで生きられたら良い方で、子どもたちは極度の栄養失調だった。

 シディさんはセンターをスタートしたが、ポデは不可触民のため、だれも手伝おうとしなかった。彼の娘5人、息子2人の家族だけで世話をした。やがて娘たちの友人が1人、2人と手伝うようになった。デイケアセンターはスタート時、場所がなく寺の中で始めたが、使用許可がもらえず、トラブルが絶えなかった。
 オープン2週間後、子どもたちが突然来なくなった。
調べると親たちが清潔の大切さ、健康の大切さを知らず、子どもたちを行かせる努力をしなかったのだと分り、親も含めた教育の大切さに気付き、7、8才から大人まで全員に読み書き、清潔の大切さ、人として皆平等であることを教えた。
 それまで、小さな子どもでも朝からお酒を飲むような荒れた生活だったが、身奇麗にし、家でご飯を作り、読み書きもできるようになった。
 すると、近くのホテル経営者等は、彼らにお酒や食物を1Rsの物でも5Rsとだまして売っていたのがだませなくなり、とても怒っていやがらせをした。警察を操って、デイケアセンターを閉めさせようともした。
 様々な妨害にも負けず、デイケアセンターを続け、小学校も開設し、さらに地域を奇麗にする活動も始めた。
 
 その後、何をしようかと悩み、彼等の収入は月々約120円ぐらいと非常に低かったので、良い収入を目指して仕事のトレーニングをしようと考えた。
 カーペット産業が盛んになってきた時だったので肥料工場の1階に機織り部屋を作り1985年カーペット織りのトレーニングを始めた。15才以上の男女5、60人ぐらいに教えた。1986年編物のトレーニングをスタートし、1987年から家具作りのトレーニングも始めた。そしてポデだけでなく他の低カーストの貧しい人々にもトレーニングを開始した。
 技術訓練生には、カーペットで1日20Rs、家具は、
1ケ月700Rs支払う。支払う理由は、彼らがあまりにも貧しく、お金がなくて食べることもできないとトレーニングに通う事もできないから。
 編物は、貧しい人には無料、いくらか余裕がある人からは月に150Rs徴収する、しかし、毛糸、教科書は全て無料で配布する。
 現在のトレーニングセンターのビルも1994年に支援を受けて建設された。
 1989年まで、生徒は清掃夫の子どもたちのみであったが、1990年から、学費の掛からないことや教育内容の良さがスクールデイの公開などで知られるようになり、他のカーストの貧しい子どもたちも通学するようになった。

 1991年まで、毎日、スタッフがコミュニティーに行って、学校へ来なさいと呼びに行っていた。
 KTSは自分たちの利益のために学校に来いと言っていると両親は誤解し、積極的に子どもを通わせようとしなかった。そこで、それは違う、あなたたちの子どもが良い大人になるためだから、子どもに良い教育をしたい人は学校によこしなさい、そう思わなければ来なくても良い、もう、迎えには来ない、と言った。
その後、彼らは教育の必要性を認識し、彼ら自身のイニシアティブで子どもを学校に通わせるようになった。現在は、皆、教育の必要性を理解し、全員来るようになった。
 今でも240名の50%が道路清掃夫の子どもで、他の 50%は低いカーストの子どもである。
 以前は費用は全て無料であったが、1991年35Rs、1993年50Rs、1994年にも少し上げて、現在の年間100〜150Rsだけ払ってもらうようになった。まったく無料だと、却って学校に来なくなるという。
 他にも行き場のない子どもの宿舎を運営し、10人の女の子、11人の男の子の世話をしている。その内5人はKTSの小学校に通い、16人の子供は外の学校に通っている。彼等に掛かる全ての費用はKTSで出している。

◆ KTSとネパリ・バザーロの関わり方

 KTSとは95年からのお付き合いだが、これまでに意見の違いがいくつかあった。
 ネパール特有の太い糸でざっくり編んだセーターは、素朴で味があるがとても重くかさばる。年々暖冬傾向で、軽くて暖かく、カラフルな素材の防寒衣料が出まわる日本の市場では売れなくなるのは目に見えていた。
 細い糸で軽いセーターを編んでくださいと頼んでも、ニッターさんが編むのに時間が掛かるからいやがると難色を示した。価格の設定にしても一般の倍の価格で、何故これほど高くなるのかと聞くと、子どもたちのケアや活動にお金が掛かるので維持するには製品価格を高くしなければならない、と言う。それは活動を支えることを主に考えたチャリティー価格であり、あまりに高い原価ではいくら利益をギリギリに押さえても販売価格が高くなってしまい、フェアトレードを理解してくださるお客様にしても買いきれない。
 適正な市場価格でなければ継続できない。見解の相違や価格が折り合わなかったことから、ウール製品のオーダーは他の生産者団体に移さざるを得なかった。

 その後、キランさんから、軽いセーターを編むようにしました、価格も他の生産者と同じように設定しましたから注文をください、と声が掛かった。すでに他の団体をメインに取引していたのでたくさんの注文を出す事はできなかったが、要望をきちんと聞き入れて努力をしてくれたことに応えて、新たなデザインを考えオーダーした。
 今では軽い糸に慣れたニッターさんたちは、重い糸は肩が凝り、疲れるからいやだと言うそうだ。「なんでも最初は皆いやがるけれど、慣れれば大丈夫。軽いセーターを編むようになってから注文がとても増えましたよ。」このキランさんの言葉を聞いた時、どれほどうれしかったか。
 そして、信頼関係も深まり、キランさんや家族の方達には、仕事を離れても友人としてお付き合い頂いている。

◆ ネパリ・バザーロの目指すフェアトレードとは

 94年からサナやマハグティなどの団体とFTGNというフェアトレード団体のネットワークを作り、IFAT(南北のフェアトレード団体の国際連盟)のアジア地域会議をカトマンズで開催したり、イタリアで開かれた世界会議に出席するなど活発に動き、取引先も増え、経営も安定してきた。施設も充実し、インターネットも駆使して、これから益々発展して行くだろう。ずっとお付き合いしてきたところが大きくなるのはとてもうれしい。 大きいとは言っても、ネパールの生産者団体は、インドや他の国の団体から見るとまだまだ小さいが、インターネットはおろかFAXすらない小さな小さな生産者が更にたくさん存在する。電話が辛うじてあっても英語が話せず、海外との取引きはできない。
 国内市場が未発達で国外に販路を求めなければならない手工芸生産者の現状を考えると、ネパリ・バザーロは力の付いてきた生産者から、そういう小さな生産者に取引を移していきたいと考えている。
 
 英語の堪能なスタッフが揃い、施設や道具も充実している団体と付き合えば日本の市場拡大に殆どのエネルギーを投入できて売上も増え、組織もどんどん大きくなるだろう。
 でも大きくなればなるほど、ますます小さな生産者とは付き合えず距離が開いてしまうだろう。
 フェアトレードも一様ではなく、付き合う生産者のサイズに合わせて考え方も対応も違うはずだ。
 小さな生産者と付き合うことは楽ではない。しかし、IFAT参加団体の規模がだんだん大きくなるのを見るにつれ、ネパリ・バザーロの目指すフェアトレードは、そういう組織に入ることのできない、より小さな生産者と付き合うことだな、とつくづく思う。
注)Rs(ルピー):ネパールの貨幣単位:1Rs=1.7円

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